限界


その男はよく笑う男だった
目を細め、屈託のない表情をする
その瞬間、見たことのない彼の少年の頃を思い起こさせる気にさえになる

そのせいもあって彼からは、性的な感覚を一度も感じたはなかった


今の今までは


視界の中のネクタイだけを見つめていた
ネクタイが似合う、そうぼんやりと考えていた
次に訪れるだろう状況を想像して逃げる程、彼女も子供ではなかった


半ば強制的に、男の手で顎をしゃくり上げられれると
時として見たことのある、彼の真っ直ぐな目がそこにあった
それを目にしたのはほんの一瞬

なぜひとはキスをするとき、反射的に目を閉じてしまうのだろう


心臓が一度鼓動して、僅かな声にならない声が漏れた
何かが触れた瞬間のかすかな驚きと、今出来る限りのささやかな抵抗かもしれない

しかしその言葉もあえなく遮られる
もう声を上げることすら許されないと言う男の優しい強引さがそこにあった


彼女はディープキスが嫌いだった
ねちねちと舌が口の中を這い回るその様に嫌悪感さえ感じてしまう
彼はそれを知っているかのように、舌を絶対口の中には挿入して来なかった

代わりに口角の端から端へ、舌を這わせた。下唇を伝って

思わず声を漏らし、彼女はそれに恥かしさを覚え
開放していた唇にキュッと力を込めた


下唇に舌先が限りなく優しく這う
舌先と同時に唇が触れ、唾液が潤滑油となって滑らかに動く

唇に込めていた力が抜けると同時に、身体の力さえ抜けてゆく
この男がこんなにデリケートな唇の動きをするなど、想像もしたことがなかった
全身の体重を彼に任せ、されるがままに成り切っていた


生暖かい息遣いが伝わる
それが彼女の何かを刺激する


ああ… この感触に蕩けてしまう

そう感じていた矢先に、不意に忘れ去られた上唇を齧られた
それも、限りなく優しく乱暴に



「子宮が疼く

それは女にしか分からない感覚
その瞬間もうその獣に好きにして欲しい早く好きにしてという淫らな思いで全身が痙攣した

しかし、そんな淫らな自分を彼に悟られるなんて言う屈辱には耐え難い
彼女は固く目を閉じ負けるまいと息を呑んだ


そんなことは全てお見通しであるかのように男は

ゆっくりと唇を離していった
ゆっくりと


固く閉じた目をゆっくり開くと、至近距離にいつもの屈託のない細い目がそこにあった


「オシマイ」

彼の目はそう言った


耐え切れず彼女は喘ぎ出した
声にならない声を上げた


「どうして欲しいの?」

彼の目が問い掛ける


彼女は自ら彼の唇を噛んだ
負けた

でもそんなことはもうどうでも良い



それが、彼女の限界だった


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