葉月 (二章)


いつもの時間に彼女は現れた

―が、

今日はきちんとした身なりをした、中年男にウエストを抱かれて入って来た
男の胸元のポケットにはチーフまで入っているじゃないか

ハヅキのあの紅いドレスも、いつもより上等だ
その中年男の贈り物に違いない


男はポケットの中の小さな贈り物の包みを握り潰して苦笑いした

彼女は、誰のものでもない
それはここに集まる男達の暗黙の了解になっていたじゃないか

そうは思いながらも、やるせない思いで満ちていた
「ハヅキ」と僕は、2度も愛し合った
この身体で彼女を悦ばせたんじゃないか


既に酔っ払った足取りの「ハヅキ」と、彼女をエスコートする紳士が男の背後を通り過ぎた
目線1つさえくれず

その瞬間、胸にヒビが入る音が聞こえた

僕はもうお払い箱ってことかい?
強い酒をオーダーすると、男は一気にそれを飲み干した


酒のせいで少し陽気になった彼女は、時折大声を立て笑った

中年男は口角を上げて微笑む程度だが、彼女に廻された右手はそのウエストを離すことなく
空いた左手はグラスを持つか、もしくは始終彼女の頬や唇をなぞった

その指は、色は黒いが細く長く、ピアニストを思わせる繊細な雰囲気を持ち合わせていた


見るなよ

そう思いながらも彼女が笑い声を立てる度、神経が過敏に反応する


彼女が「ノー」と囁いた

囁き声とは言え、その範疇は超えていた
店内の喧騒に吸い込まれ、周りに漏れることはないだろうその声も
敏感になった彼の耳は逃すことなくそれを捕らえる


目線だけを2人の方向に向けると、彼女の頬や唇をなぞっていた男の指が
後れ毛の零れる白いうなじを這っていた
その指使いは、pianissimoという記号の書かれた譜面を忠実に弾きこなすかのように


彼女は相変わらず「ノー」を繰り返しながらも
その指使いを堪能するかのように、うっとりとした目をしながら
時折喘ぎにも似た声を立てた


僅かに男の指が動くだけで、過剰に声を立てるようになった

おかしい
あの様子は酒だけのせいじゃない

ドラッグか?


中年男は彼女の声を制するかのように、彼女の口を己の口で塞いだ
しかし、指の動きは止まることはない

滑るように、男の指がうなじからバストの先端へと降りてきた
彼女はビクリと身体を反応させる


その先端が今どのようになっているかは
下着を身に着けていない、薄い絹の布地一枚の上からは一目瞭然だった
おそらく下半身も、今頃下品な泥濘で満ちているに違いない

なぜなら

彼女はそこに男の指を促すかのように、組まれた両足を解き
それを次第に広げ、腰を僅かづつ、、前に突き出してきたからだ


彼女の意思が伝わっているかのように、男の指が彼女の内腿に滑り降りる
瞬く間に、それが彼女の絹の布地の中に隠れた

口を塞がれ声を立てることの出来なくなった彼女は
男の指使いに合わせて身体を小刻みに痙攣させ

それでも重ね合わせられた唇の隙間から、声にならない声が漏れた


そして、事もあろうに

彼女の右手が中年男の腿の付け根に、白く長く細い指を滑り込ませたのだ


Sit!!

非常識だ

愛し合う行為を人目につく場所で行うとは
せめて、人目のないところででやってくれ
この僕の目の届かない場所で


そんな思いとは裏腹に、彼の身体は彼女を求め
今にも男を殴り倒して彼女に襲いかかりそうな淫らな衝動を
手にしたグラスを握り締め耐えた


ハヅキ…!!

こんな僕を救ってはくれないのかい


握り締めたグラスをテーブルに叩きつけると、派手な音がして酒が零れた
無愛想なバーテンが、彼を見た

2人の指の動きが止まり、重なり合っていた唇が離れた
2人は派手な音のした先を見た

そして彼女の視線は、グラスを叩きつけた男の姿を捕らえると
ようやく先週愛し合った男の存在に気付いたかのような眼をした


下品な女め

そう思いながらも、やぁ、と言って右手を上げた

「楽しそうだね。ドラッグでもやってきたのかい」
皮肉たっぷりに発した言葉に

「失敬な」
中年男の声が返って来た

彼女は中年男に僅かに目配せして
「ひとりなのぉ?」と甘ったるい声で訊いて来た

「今夜僕の下品な女は、他の男とメイクラヴの真っ最中らしい」

彼女の眼の色が変わった
中年男がすかさず反応して、何か言葉を発しそうになったが
彼女の言葉のほうが早かった

「言葉に気を付けて」

そして、ゆっくりと、噛み締めるように言い放った

「僕の、と言う表現を2度と使わないで
私は、誰のものでもないわ」


その、以外な言葉に少しうろたえた中年男が「ハヅキ、」と彼女の名前を呼んだ

それを察した彼女は

「帰って」

中年男に向かって静かに言った
突然情ない声を発した中年男に彼女は再び言った

「帰って」


紳士としてのプライドを保つかのように、男は何も言わず数枚の紙幣をテーブルに置いて
彼女の傍を去った

店の扉を閉める前に、紳士は笑みを浮かべて右手を上げた

「Beast!!」

残された男は罵りの言葉を吐き捨て
そしてポケットの中の小さな包みを足元に叩き付け、店を出て行った


騒がしい店内のその一角だけ、音も色も失くしたかのように静まり返っていた
彼女のドレスの鮮やかな紅さえ
まるで、グレースケールを掛けたように― 色を失った


その始終を、日本人のバーテンだけが静かに見守っていた


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