葉月 (三章)


ここは…?


脳みそがどんよりと重い

虚ろに目線を移動させ、辺りを確認した
ベルベットのソファー、
カウンター


朝?


昨夜の記憶を呼び戻そうとしたが、頭の中にもやがかかっているようにはっきりとしない
そうだ、男が2人、争って、

それから…



「おはようございます」

そう声を掛けて来た、白いシャツにジーンズを履いた男が視界に入ってきた


誰?


身体を起こそうとした瞬間、こめかみに刺すような痛みが走って
眉間に皺を寄せた

「二日酔いですね」


ああ、バーテン、
黒服じゃないから分からなかったのだ

昨夜、この男と?




何故私がここにこうしているのかを聞き出そうとしたが、上手く言葉にならなかった


「憶えてないんですか?」


掛けられたブランケットの肌触りの良さに気付いた時、この男とは何もない、なぜかそう確信した

男は昨日の始終… とは言え幾つかのシーンをかいつまんで話してくれた


「すごいんですよ、大暴れするように踊って来た後、お酒頂戴、って大騒ぎするんですもん
流石にヤバイなと思って、『ラム抜き』のラムインコーク出したら… 怒るんですよ
あたしを馬鹿にしてんの、って」

「ラムをボトルごと奪われちゃって、こりゃまずいなぁと思ってたらアウトでしたね」


聞かされる昨夜の出来事よりも、目の前の男のほうが衝撃的で滑稽だった
黒服を脱いだら、ホントに冴えない日本人男
日本人だから冴えない訳ではない
何て言うか…

パッとしない、そんな単語が当てはまるような男

しかも、勤務中は無愛想、無口で通しているくせに
喋ってるわよこのひと。アウト、だなんて


彼女はこらえ切れず笑い出した
男は何故彼女が笑っているかを理解することが出来ず…
そして一緒に笑い出した

アウトは、アンタ、

笑いが止まらなくなった


「頭、痛くないです?コーヒー飲みますか?」

コーヒー、嫌いなの。ラムがいいわと言った瞬間、男が子供を叱り付けるような目で彼女を睨んだ
それがまた可笑しく、また可愛らしく、慌ててコーヒーください、と言葉を返した

「その前にシャワー浴びますか?奥にありますけど」
彼女は子供のように喜んだ


店の奥に案内され、シャワールームの前でパジャマのような男物の着替えを渡された
俗に言う日本の『ジャージ』だ

きついメイクを落とし、昨夜身につけた汚れ…
男の手によって汚された場所を丹念に洗い清めた


濡れた髪をまとめ、ブカブカのジャージを着て戻って来た彼女を見て今度は男が笑い出した
「こんな格好の葉月さんを拝める男もそういないでしょうね」

彼女はぷぅっと脹れて言い返した
「私がすっぴんを見せた男もあなたが初めてかもしれないわね」


そしてふと思う
「ハヅキ、」と呼ぶ男は沢山いるけれども
「葉月さん、」と呼んだ男はこのひとが初めてかもしれないと


コーヒーを沸かす冴えない日本人男をぼんやりと眺めながら
今までにない、週末の朝のこんな滑稽なやり取りに心地よさを感じていた


「綺麗な名前ですね、葉月さん、て。8月生まれなんですか」

葉月と言う名前は、週末にだけ使う
8月生まれの彼女が自分で付けた名前である

「流石日本人ね。アメリカの男は葉月の由来を知っているどころか
その名前を横文字で表現するのよ」

男はふざけて、彼女に取り巻く男達が呼ぶように「ハヅキ」と呼んでみて
「発音がづ、じゃなくて、zu、なんてすよね、」
面白そうに話しながらコーヒーカップを持って隣に腰掛けて来た

よく喋る。知らなかった


仕事中は無愛想よね、と訊くと
基本的に人見知りですから、そう言って俯いて笑った
その横顔にふと惹き付けられた

「綺麗な肌してるのね」

そう言った瞬間、男は口に含んだコーヒーを見事に噴出した
別に可笑しなことを言ったつもりはない。アメリカ人の男の肌はきめが粗いのだ
そういえばこんなに間近に、黄色い肌の男の顔を眺めるのも久しいかもしれない


「ね、触っていい?」


彼にとって突拍子もなく突きつけられたその言葉に
「何でですか?」などと間抜けな返答が返って来た

その質問に答えることなく、彼女の指が彼の頬に触れた
その手を、男の手が制して

少し緊張した面持ちで「やめてくださいよ、」と言うと、コーヒーカップに口を付けた


この男も、女と愛し合うことがあるのだろうか
時にあのバスルームにて密かに行われる情事を、彼も経験しているのだろうか


知らず知らず湧き上がる目の前の男への興味と
まだ彼女自身気付いていない得も知れぬ感情が
その長い指を再び男の頬に触れさせた

少し困った顔をして、やめてください、と、またその手を払いのけようとした

「どうして?」


「こういうの慣れてないんです。あなたがお相手するような男(ひと)達と違って」

「綺麗だから、それだけ」

「やめてくださいよ」

「触るだけよ」

「ダメですよ、」


頑なに拒否するその姿が、セクハラを拒否する女の子のようでもある
彼女の手を払いのける手を掴み、空いたほうの手で鼻筋をなぞり、唇に触れた

「ああ、ダメですったら」

ぶるぶるっとイヤイヤをして、掴まれた手を振りほどいて背中を向けた
抱きしめてあげたいくらい愛おしい衝動にかられる


「それに… 僕だって健全な男なんですからね」

高校生が口にするような台詞を、彼は大真面目な顔で言った
可笑しくはなかった

精一杯の彼の姿なのだ
遊びで女と愛し合うことなど、この男には出来ないのかもしれない


彼女も大真面目な目をして訊いた

「健全な男の子だったら… どうするの?」


一度唇を噛み締めた後、振り返って真っ直ぐに視線を向けた

「知りませんよ、僕が何をしても」


彼女はそれに返答せず、代わりに彼の身体にもたれかかった


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