のぶちゃんのおおきなて (一章)


原因は、さちの心ないひとことだった

『いつまでさちは、こんなことしてるのかなぁ…』


彼の動きが止まった

彼の目を見たその瞬間、発した言葉の重大さを感じた
すぐに後悔のおもいでいっぱいになったけど
だけどそれは、半ば意図的に発した言葉でもあった




のぶちゃん


彼はウィークデーのうちの2、3日は、さちの部屋に来た

週に半分くらいはのぶちゃんが残業で、会う時間が少ないから
その日はのぶちゃんもまっすぐおうちに帰る

それ以外はいつも仕事帰りにスーツ姿でここに来て、終電で帰って行く
時に朝までいることもあるけれど、必ず始発で帰って行った

12コも年上ののぶちゃんは、こいびとと言うより大好きなおにいちゃん
そんな感じだった



のぶちゃんと会う日は、よくさちの部屋で2人で夕食を作った
外食よりもそれが何よりの楽しみだった

狭いテーブルに2人分の食事を並べ、2人で食べる
なんとなく、おままごとの夫婦ごっこをしているような気にもなったけど
まだハタチで学生の彼女には、それが新鮮で嬉しかった


食事の片付けが終わると、狭いユニットバスにお湯を張り、2人でお風呂に入った
狭い狭い浴槽の中で2人でハミガキをして、お互いの身体を洗いっこして
そして、そのあとたくさんたくさんキスをして
たくさんたくさん、えっちなことをする


のぶちゃんのえっちは、すごくやさしいのにいやらしいことをいっぱいする
身体のあちこちにいっぱいいっぱいキスをする
どうしていっぱいキスするの、って聞くと、さちがいっぱい好きだからいっぱいキスしたい
のぶちゃんはそう言った


キスって言ってもいろんな種類があるってことが
のぶちゃんと付き合い出してから分かった



大好きだよ、と言う想いを伝えるキス

ケンカした後に、機嫌直せ!!って強引にしてくるキス


えっちしようよ、とえっちな気持ちを誘うキス

恥かしいところが蕩けてしまうくらい気持ちのいい、繊細なキス


ばいばいしたくない、って切ない想いを埋めるキス



のぶちゃんはえっちのとき、いつまでもいつまでもキスをし続ける
まるで子猫を舐める母猫のように、やさしく、やさしく

すごくきもちいい、が終わる瞬間
脚がぴんと伸びて、びくびくっと身体が痙攣すると、ようやくキスをやめる


全身に込めていた力が一気に抜けてぐったりしていると
今度は身体のあちこちを、いっぱいいっぱい触ってくる

頬を撫で、髪を撫で、首筋から肩を撫で、指先からつま先まで優しく
大切な壊れ物に触るかのように

さちがびくん、とするところをのぶちゃんは良く知っていた
さちの中の何かが我慢出来なくなって、また泣き声を上げ始めると
今度は我慢の限界になったのぶちゃんが、ゆっくり入って来る


あ、あ、、


さちのほうが泣きそうになるくらい、気持ちいい
出したり、入れたりしているだけなのに、にぶい気持ちよさがじわじわと広がって
なんか、その場所がどろどろになってく感じがする

大きな声を出したら外に聞こえる
そう思うのに、のぶちゃんはいじわるをしているかのように出したり入れたりを繰り返し
どんどんさちをどろどろにしてゆく


のぶちゃんの、気持ちいいよぉぉ
すごく気持ちいいよぉぉ

今やめたら、さち、死んじゃうからね


そう言っても、いつも、その気持ちいいが先に終わってしまうのはさちのほうだった
でも、さちはまたすぐに気持ちよくなる
触られるとすぐにまたどろどろになって、更に敏感になって行く

そうしているうちに、のぶちゃんの眉間に皺が寄る


のぶちゃん、気持ちいい?

うん、さちのここ、すごく気持ちいいよ、


気持ちいいと言うより苦しそうな顔をしながらのぶちゃんが呟く
でも、さちもきっと気持ちいときはこんな顔をしてるに違いない


のぶちゃんは絶対いつも、避妊した
それは、もちろん赤ちゃんが出来たら困るって言うのもあるんだろうけど
外で出したくない、
2人が繋がったまま、さちの中に入ったまま出したいんだ、って

そして、せいしを出す瞬間必ず、さち、好きだよと何度も言った


うん、 うん、


何度も頷きながら、のぶちゃんの小さく呻く声を聞く
それまでに何度も満たされているはずなのに
さちは始めてその時満たされた気持ちになる


あいしあう、ってこういう気持ちを言うんだよね

そう呟くと、ませがき、と言ってくしゃくしゃと頭を撫でた後、唇をさちの瞼に押し付けた
でも、さちはそう思う

あいしあうって、こういうことなんだ


だから、何もいらないよ




12時になると、のぶちゃんは着てきたものを着て
また、いっぱいいっぱいキスをして帰って行く
まるで、シンデレラのように


マンションの重いドアは、どんなに静かに閉めてもバタン、と言う音がする
さちはこの12ヶ月、何度この音を聞いて来ただろう
この音を聞くと、胸がぎゅっときしむ

でものぶちゃんは、さちのことが一番すき
智恵ちゃんの次に、一番すき

そう思うとその胸の痛みも我慢出来た



***


のぶちゃんと出会ったのは、去年の12月に入って間もなくの金曜だった
バイト先の送別会で、飲みに行った日のことだ

お酒を全く飲めないさちが、その日珍しく甘いカクテルもどきのお酒を飲んだ
普段はこういう席でもお茶しか口にしないのだけど
その日勧められて飲んだカクテルが、まるでアルコールを感じさせず口当たりも良くて
ついついおかわりをしてまた飲み干してしまった


アルコール拒絶反応はおよそ30分後に現れた
とにかくムカムカして、頭が痛くて目が回る
かと言って吐いたこともないさちは、この気分の悪さをどうすることも出来なかった


10時ごろ1次会の店を出て、皆2次会の店へ向かおうとしていたが
さちはとてもそんな状態ではなく、仲間と別れて駅へ向かった

とにかく気持ちが悪い
内臓が口から出てきそうだ

ぐわんぐわんとまわる身体は動くことさえ拒絶して
駅入り口の階段でへたり込んでしまった
身体の中で暴れている何者かが静まってくれるのを
目を閉じてただただ待つしかなかった


その間いろんな男が声を掛けて来た

ひとり?何してるの?待ち合わせ?
飲みに行かない?


拒絶する言葉も出ないほど気持ちが悪い
貝のように固くなって、もうお願い、早く行ってよと祈るしかなかった



大丈夫ですか?



固く閉じた目をうっすら開くと、黒いコートから覗く紺色のスーツの脚が目の前にあった

なんだかとても辛そうだし、いろんな男に声を掛けられる君が
ちょっと見ていられなくて、


そう言って彼は少し屈んで言葉を掛けた
30代半ばくらいのサラリーマン

大丈夫です、そう言って立ち上がりカバンを肩に掛けると
一瞬身体が宙に浮いたような感じがして、危うく倒れそうになったところを
サラリーマンの腕に支えられた


大丈夫?歩ける?

悪いひとじゃない、そう思ったから素直に気持ち悪いんです、と言った


トイレに行く?

あ、でも、さち、吐けないんです…

でもこのままじゃ電車にもタクシーにも乗れないよね。


…分かった、 おいで、



やさしい声でそう言って、彼は駅の構内までさちを抱えるように連れて行くと
ちょっと待ってて、と言って改札の駅員の所へ言った
駅員と少し話したあと戻って来て、おいで、と彼に手を引かれたままついて行った

大きな手
冬なのに、あったかい


そこは一般のトイレではなく、駅員専用のトイレだった
駅員さんはおとこのひとしかいないと思っていたのに、ちゃんと女性用のトイレもある
彼はその女性用にさちを連れて入り、更にその個室の中に連れて入った


…どうしようと言うのだろう?


さちは彼の行動が分からなかった


上着、脱げる?

さちのカバンを肩から降ろし、自分のカバンと一緒に荷物置き用の
金網の上に乗せて言った
言われる通りにコートを脱ぐと、彼もまたコートを脱ぎ
それをドアに取り付けてある荷物掛けのような取っ手に重ねて掛けた


頑張って吐いてごらん


…え??
このひとの目の前で?


でも、吐けないんです、

そうか…ちょっと待って


彼は更にジャケットを脱いで、落ちないように2枚のコートの上にそっと引っ掛けた
そしてワイシャツの袖を捲ると、片手でさちの頭を押さえて俯かせ
片手の指を口の中に入れて来た
驚いて少し抵抗したが

恥かしくないから、大丈夫。ラクになるから頑張って


太い男の指が喉の奥に当たると、途端に苦しくなって涙がみるみる溢れ出て来た
コドモを産むってこんな感じなの??


苦しくてぽたぽたと涙が零れ、視界がぼやけて見える
がんばって、と言う声を遠のきそうな意識の中で聞いていた




全てが終わった後、手洗いと洗顔を済ませ、彼は自分のハンカチで
さちの顔の水滴の拭き残しを拭ってくれた


アカの他人にこんなに優しくしてもらったことはない

てゆうより、どんな親切なひとであったとしても
見ず知らずのひとのこんな場面にに立ち会ってくれる、
いや、手伝ってくれるひとなんて、いる??


まだお礼を言っていない
でも、こんな醜態を見せてしまった相手に対する恥ずかしさと申し訳なさで
何も言葉が出て来ない

ワイシャツの袖を降ろし、ボタンを掛けているそのサラリーマンの顔を
ぼんやり見つめていた


その後彼は、駅の傍のコーヒーショップに連れて行き
さちを席に座らせると、グレープフルーツジュースとコーヒーを運んで来た

初めて、ありがとうございます、と言ってストローに口を付けた

喉に流れるグレープフルーツの果汁が、死んださちの肉体を蘇らせる
お酒飲みが言う、五臓六腑に染み渡る、てのはきっとこんな感じだ


どう、ラクになったでしょ、


そう言われて、初めてさっきまで暴れていたムカムカ君が
身体の中から姿を消していたことに気付いた


はい。すごくスッキリしました


そう言って、もしかして、すごく恥ずかしいことを言ったんじゃないかと思って
思わず赤面して俯いた
彼はそんなさちを見て、吹き出した


ちょっとごめんね、そう言って彼は携帯を取り出して
さちとは違う方向を向いて話し始めた


あ、ごめんごめん、残業でさ、
…うん、終電では帰れるから

うん、うん、
チエは寝た?

あ、そう、


おくさんらしきひとと電話を終えると、またごめんね、と言ってさちのほうに向き直った

悪いことをしちゃったかも、
そう思って、お店を出る支度を始めた


ここの飲み物代も出してもらった
どうしよう、


あの、今度お礼をさせてください

え、そんなのいいよ

お願いします、お礼、させてください



そう言うと、あてにはしていないから、そう言って名刺を取り出し
空いているスペースに携帯の番号をサラサラと書き始めた

さっき口の中に入って来た時は、とても太くてごつごつした指のように思えたが
意外に細くて綺麗な指をしている

名刺を渡され、コートを着ると2人は席を立った


大手建設会社の社名と、
戸倉 将伸

ホームまで送ってもらって電車に乗った後、その名刺をずっと見つめながら

どんなお礼をしたらいいんだろうな、

ぼんやりと考えていた


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