のぶちゃんのおおきなて (終章)


卓也。

さちへ恋愛感情を抱いていたかは定かではない

ただ…

いつのときも笑っていたさっちゃん
こんなに痛々しいほど弱く、無防備に心の傷てを曝していたことに…
守ってやらなきゃいけない、そう男の本能を感じたのは確かだった

ベッドに押し倒されたさちは全くの無抵抗で、遠いところを見ていた
卓也には、さちのこころに体温が通っていないように見えた


無理強いするつもりはなかった
さちがイヤだと言えば、すぐにやめるつもりだった


優しく身体に触れた
指先から腕へ、ふくらはぎから腿へ、ウエストから背中へ
そうして何度も何度も抱きしめた
失くしたさちの体温を取り戻そうとしているかのように

さちは最後まで声ひとつ上げることなく
遠い目をしているか瞼を閉じているかのどちらかだった
感覚の一切を失くしてしまったように


そんなさちと交わっていて、卓也も射精には至れなかった
本能の欲求に没頭することなど出来はしなかった

そして、抱きしめたままさちを眠らせ卓也も眠った
人肌があれば、安心して眠るらしい
結局卓也はもう一晩さちのところにいて、翌朝さちが眠っている間にそっと出ていった


***

クリスマスイヴ

さちはバイト先でポタージュの鍋をかき回していた
小さな洋食屋さん
1年半で、ようやく雑用から料理らしいことをさせてくれるようになった

10日ほど前からさちは学校とバイトに復帰、
数日の無断欠勤は、たくちゃんの配慮で風邪で倒れていたことになっていた
一週間ばかりで急激に痩せこけたさちを見れば、病気と頷けるのも確かだった


一人暮らしってのは怖いねぇ
何かあったら誰でも電話して頼らなきゃダメだよ

店長は心から心配してくれていた


あれからたくちゃんとはあまり口を利いていない
気まずかった訳ではないけれど。忙しく動いて何かに集中していたかった

卓也もそんなさちを、黙って見守るだけだった


お疲れさん。ラストまでいてくれて助かったよ、ありがとう

店長に労いの言葉を貰って、あいさつをするとコートを着てカバンを抱えた
店を出たところで、たくちゃんが追いかけて来た


まっすぐ帰る?

え?


クリスマス、ちょっとだけ祝わない?

うん… でも、疲れたから帰りたい


そっか、分かった。
気を付けてな



たくちゃん、ありがとう…


彼は手を振り地下鉄の乗り口に向かった
さちはJRの駅に向かう


手を繋いで歩いた、イルミネーションできらめく通り
一緒に入ったコーヒーショップ

目に映るもの全てが痛く感じる
さちはそれらからあえて目を逸らさなかった
ひとはそんなに弱い生き物ではない― そう思っていた


明日から、冬休み
冬休みの計画を立てよう―



駅のホームの階段で立ち止まった
去年ここで、のぶちゃんに出会った


ここにいたら、もしかして

会えるかもしれない


胸が一瞬高鳴ったけれど
さちはその思いをかき消すように階段を駆け上がった
無心で

その瞬間躓いて転んでしまった
カバンの中身がバラバラと散らばる
ペンケースの中身は階段の下まで散乱した



大丈夫ですか?



…ああ


うああああああ

うあああああああああああ…!!!!


その瞬間こころは爆発した

さちはその場で大声を上げて泣きじゃくった


のぶちゃん、のぶちゃん、
のぶちゃん、のぶちゃん、


声を掛けた男は驚いて、そんなさちをいぶかしげに眺めたのち
その場を立ち去った


ここでこんなふうに始まった、のぶちゃんだけを見つめていた日々
もう帰って来ない日々


そして

さちはのぶちゃんに大事にされたこの身体を穢してしまった
あんなに大事にしてくれたこの身体を、穢してしまったんだ

ごめんなさい
ごめんなさい
ごめんなさい
ごめんなさい


子供のように大声でしゃくり上げるさちを
誰もが横目に通りすぎてゆく

ひとの流れから取り残されたように、そこだけ時が止まっているかのように
ひらすら泣き続けた


涙でぐちゃぐちゃの顔を僅かに上げると
階段から改札へ向かって、見覚えのある後ろ姿が去っていった


…!!!!


急いで立ち上がって階段を駆け上がると、その後ろ姿を探した
もうどこにもいない


見間違いだったのか
他人の空似だったのか

それとも、幻だったのか…


私物の散乱した場所に戻り、のろのろとカバンの中身を拾うと
手帳の下敷きになって、ちいさな紙切れが落ちていた
それを開くと、見覚えのある右上がりの走り書きがあった



ひとりで立てるようにがんばれ
僕もひとりで立てるように、がんばる



のぶちゃん、
のぶちゃん、


のぶちゃんも、さちと同じように躓いていたの?

声を掛けて、またここで手を取り合えば
簡単に、目の前の苦しみから逃れることは出来たのにね

今、前を向こうとがんばっているのは、さちだけじゃないんだね


メモ帳の切れ端を大事に握り締め
空を仰ぐと


雪が、降っていた

紺色の空から
次から、次へと


このそらの色とこの雪を、忘れることはないだろう


その手がなくても

ひとりで、立ち上がるよ―



カバンを抱えると、涙でぐちゃぐちゃになった顔を真っ直ぐに上げて

さちはゆっくりと階段を昇り始めた




***

ようやく春の光がベランダの窓から差し込んでくるようになった

がらんどうになったワンルームは、やけに広く感じる
そこに揺れていたのは、たくさんのおもいでとあたたかな日差しだった


3月

就職を期に、さちは引越しを決めた
交通の不便があった訳じゃない
新たな気持ちで、新しい出発がしたかったんだ


もう忘れ物ないかぁ?

外からたくちゃんの声


うん、もうないよ、今行くね


もう一度部屋を見渡し浴室を覗くと
忘れられていた、二本のはぶらし


おもいでは、ここに置いて行くね


小さなカバンだけ肩に掛けると、ゆっくりとドアを開けた



ばたん―



何度となく聞いてきたこの音も
これが最後


さよなら
さちのたいせつな、たくさんのおもいでたち


トラックの前にたくちゃんが立っていた


おもいでは、ちゃんと持って来たか?

ううん、ぜんぶ、ここに置いて来たよ


ほら、引越しソバゴッチするよ、早く行こうよ

おい〜〜!! これからまだ大仕事あんだぜ、
ソバかよ




主人のいなくなったその部屋は―


さちとのぶちゃんの笑い声が

揺れてこだましていた


― Fin ―


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