記憶


彼女は肩を抱かれ歩いていた

そうされることを拒んではみたのだが、相変わらずな彼の強引さは彼女を黙らせてしまう
言い方を変えれば、彼女の心中はそんな強引さをいつも望み、待ち焦がれていた

彼女は数々の欲求の大半を、口にしないどころか自尊心や恥じらいによりまるっきり逆なことを口にする
"NO" 実はそうではない

男の望みに素直に従うことや、ましてや女の口から欲求を伝えたりすることは恥かしいことだ、
そう彼女は思っていた
今時の若い女性はどうかは分からないが、女とはそういうものだ




仕立ての良い、チャコールグレーの上着から覗くブルーグレーのシャツと明るいカラーのネクタイ
視界の中のそれと廻された腕を感覚の全てで感じながら
彼の香り― BVLGARIのラストノートを噛み締めるように感じていた


久し振りに彼の胸に頬を埋めて歩きながら、涙が零れそうなほどの安堵感を感じていた

久し振りに、と言うのは彼と半年前に別れ、それ以来会うことも声を聞くこともなかったのだ
半年の間で乾き、ささくれた心が解けてゆく

長い間求めていた安らぎが、ここにあった


女性が異性に求める究極の性とは、ここにあるのではないだろうか?
そもそも女性には、射精欲と言うものはない
セックスの快楽と言うものは、そこに至るまでの通過点であり
その後、身も心も一糸纏わぬ状態で腕に抱かれ、安堵の溜息を漏らす―

おそらく、女性が欲しいものとはそれなのかもしれない



どこに向かって歩いているのか分からないが、構いやしない
このまま、この時間が永遠に続けばいい…


繁華街を抜け、灯りが疎らにしか灯らない路地に差し掛かる
その先に小さな公園が見えた
そこに辿り着く前に、彼の足が止まった



んっ、


突然抱きしめられ、彼の胸元に鼻先を押し付けられる
彼の匂いに目眩を覚え、足元がふらついた
彼の両腕はそんな彼女をしっかりと支え、忘れかけていた異性の力強さを思い出す



ああ…



抱きしめて、ほしかった
長い間


この腕の中で、溺れ死んでしまいたい



彼女の口に出来ないそんな想いは、彼の背中に廻された腕に込められた力で
言葉にしなくとも伝わっているに違いない


か細い背中に廻された腕の力が弱まると、お互い吸い寄せられるように見つめ合い
唇を重ね合わせる

生暖かく湿った体温と、柔らかな感触が唇に触れる

何度、この男(ひと)とこうして唇を重ね合わせてきただろう
何度この行為を繰り返そうとも、身も心もも蕩けてゆく感触は色褪せることはない


親鳥が雛鳥に餌を啄ばむように、彼の唇は小さく柔らかな唇を何度も捕らえて包み込む
互いの吐息に濡れ滑らかに動くそれは、この唇だけでなく…
その後身体のあちこちに這い回ることが容易に想像出来て、ぞくっと身震いがした
このあとこの唇は首筋に這い、耳元で熱い吐息を漏らすのか
それとも、はだけられた胸元を滑るように這うのか

それとも― いつ人が通るか分からないこんな場所で、もっと酷いことを強要されるのか


普段の温厚な彼とは別の人格を持ち、そのものが意思を持った生き物のように動き回る舌先や指先、
時に吐き捨てられる酷い言葉や乱暴な仕打ち

唇が重ね合わされるだけで、半年余りの空虚な時間は一瞬に埋め尽くされ
幾度となく身体中の至る場所に、それらの感覚が蘇る



彼と別れ一週間、二週間は別れの原因となった出来事に苦しみ、時には怒りを感じて過ごしたが
三週間、一ヶ月もすれば、安らげる場所を失くした行き場のない心が悲鳴を上げ始めた
不思議なことに身体の欲求だけは静かに身を潜めていた
時が経つほどに、そんな感覚すら忘れてしまうかのように

女とはこういうものなのか
あんなにも愛されたこの身体の記憶は、こんなににもあっけなく失くしていくものなのか


しかし、彼女の身体は、口づけと言う行為で全ての記憶を取り戻す
記憶を取り戻すのは脳内ではなく、彼によって愛された身体の各所だった
それらの場所は今すぐにでも彼の手中で辱めを受けることを待ち焦がれ
それもまた、彼女の心とは別の意思を持ったもののように、小刻みに震えている


…ああ、


堪え切れず、悲鳴にも似た小さな声を漏らした瞬間だった




彼女は己の声で我に返った







夢― だったのか…







あまりにもリアルで生々しい夢に身震いがした

失くしていたと思っていた感覚の全ては、ひとつも色褪せることなく身体は記憶していたのだ


忘れてしまいたい
こんな汚らわしい記憶など、早く消し去ってしまいたい


柔らかな枕にしがみつき、固く目を閉じ爪を立てると、彼の香りもとっくに消えてしまっただろうそれに
まだ、僅かに残り香がするような気がした

ふと彼の胸の中であるような錯覚を覚え―


また、浅い眠りに堕ちていった


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